オイゲン・ヘリゲル『弓と禅』感想——「意図を捨てる」という禅の逆説
禅に興味を持ったきっかけは金沢に住んでいたことです。金沢には禅宗の寺が多く、鈴木大拙や西田幾多郎といった哲学者ゆかりの地でもあります。その流れでオイゲン・ヘリゲルの『弓と禅』を読みました。
あらすじ
著者はドイツ人哲学者。禅を学ぶために日本で弓道を習い始めます。しかし、日本での学びの形はドイツのそれとは全く異なっていました。「いったいこれは何だ?」と戸惑いながら課題を解決し、徐々に禅の真髄に近づいていく記録です。
印象的だった3つの場面
「力を抜こうとするから力が入る」
著者はなかなかうまく弓を引けません。力んでいるからです。「力を抜こう」と考え始めると、師範からこう指摘されます。
まさしくそのことがいけないのです。あなたがそのために骨折ったり、それについて考えたりすることが。一切を忘れてもっぱら呼吸に集中しなさい。
「何も考えないようにしよう」と思うほど、その物事が頭に浮かびます。だから「今目の前のことに集中する」ことが、言葉にすると簡単に見えて、実際にはなかなかできません。
「当てようとするから当たらない」
弓を引けるようになっても、的に当たりません。「当てよう、当てよう」と思い始めた著者に、師範は言います。
正しい弓の道には目的も、意図もありませんぞ。あなたがあくまで執拗に的に当てようとすればするほど、ますます当りも遠のくでしょう。
3年後、著者がほとんど諦めの気持ちで「当てること」への執着を手放したとき、矢が的に命中します。
「あなたのおかげではない」
矢が的に当たったとき、師範はお辞儀をしてこう言います。
この射ではあなたは完全に自己を忘れ、無心になっていっぱいに引き絞っていました。その時射は熟した果実のようにあなたから落ちたのです。
矢が当たったのは著者の功績ではなく、「なるようになった」瞬間に立ち会っただけ、という意味です。
禅の逆説
「力を抜こうとするから力が入る」「当てようとするから当たらない」「うまくやろうとするほどうまくいかない」。禅はこういった逆説を繰り返し示します。
人間ができることは、最大限に準備して集中すること。あとは「その時」が来るのを待つだけ、という考え方は、結果を自分でコントロールしようとする発想と正反対です。
金沢で学んだ「ただ『ある』ことの良さ」と、この本の内容はうまく重なりました。
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