映画『怒り』感想 — 「信じる」はハイリスク・ハイリターンな行為だと思った

4分で読める カルチャー

邦画の面白さにハマり始めた時期に、Netflixで配信されていた『怒り』を観ました。『爆弾』→『唄う6人の女』→『怪物』と続けて観てきた流れで、4本目に手を伸ばした作品です。

結論から言うと、観終わった後のスッキリしなさがすごかったです。暗い。でも、それが悪いのではなくて、考えさせられる種類の「スッキリしない」でした。

あらすじ(ネタバレ控えめ)

東京・千葉・沖縄の3つの土地を舞台に、それぞれの場所に「素性のわからない男」が現れます。彼らは殺人事件の犯人なのか、それとも無関係な人間なのか。登場人物たちは「この人を信じていいのか」という問いに直面し、それぞれ異なる選択をしていきます。

「信じる」はハイリスク・ハイリターン

この映画を観て一番考えたのは、「信じる」という行為についてです。

信じるというのは、一度の決断で終わるものではなくて、信じている状態を維持し続ける行為の継続に近いと思いました。毎日のように「本当に大丈夫か?」という不安と向き合いながら、それでも信じ続ける。これはかなりの博打です。

裏切られたときの実害やダメージは大きい。でも、もし相手が白だったとき — つまり信じた先に得られる関係や環境は、そのリスクに見合うだけの価値があるのだろうとも思います。

普段の社会生活を思い返すと、自分たちは職場や学歴、人からの紹介といった「外部の保証」で信頼を借りています。素性のわからない相手をゼロから信じることが、いかに難しいか。この映画はそれを容赦なく突きつけてきます。

沖縄パートの衝撃、東京パートの演技

3つのエピソードの中でも、沖縄パートは特に強烈でした。広瀬すずの暴行シーンは、観ていて目を背けたくなるほどの迫力で、あのシーンだけで映画全体の空気が変わるような重さがありました。

東京パートでは、妻夫木聡と綾野剛の演技に引き込まれました。ゲイカップルの関係性を正面から描いていて、2人の演技の繊細さが印象に残っています。

「何に対する怒りなのか」

タイトルの「怒り」は、誰の、何に対する怒りなのか。観終わった後にずっと考えていました。

自分なりに思ったのは、これはやり場のない怒りなのだろうということです。喜怒哀楽なんて言うけれど、人の感情はそんなにはっきり分かれるものではありません。怒りと悲しみと後悔が混ざり合った、「やるせない」としか言いようのない感情。それがこの映画の描く怒りなのだと思います。

だからといって犯人の罪がなくなるとは思いません。でも、犯罪の大きさと罪の重さは本当に同じものなのだろうか、という問いが頭に残ります。答えは出ないのですが、簡単に答えが出ないこと自体が、この映画の力なのかもしれません。

3つの物語を並走させる意図

監督の李相日、原作者の吉田修一は、なぜ3つのエピソードを並行させたのか。

原作者の吉田修一は、もともと都市に生きる若者のリアルな生活を描く純文学作家として出発し、『悪人』以降は殺人事件を軸にした社会派の物語へと作風を広げた人です。芥川賞と山本周五郎賞を同時期に受賞するという異例の経歴が示すように、文学性とエンタメ性の両方を持っています。『怒り』でも、犯罪サスペンスの体裁を取りながら、その実は人間の内面を丁寧に掘り下げている。3つのエピソードを並走させることで、「信じる」という行為の結果が一つではないことを構造的に見せています。

監督の李相日は、在日コリアン三世として育った背景を持ち、『フラガール』や『悪人』で日本アカデミー賞の作品賞・監督賞を受賞した実績のある監督です。社会の中で周縁化された人々や、人間の葛藤を正面から描くことに定評があります。吉田修一の原作とは『悪人』に続いて2度目のタッグですが、この監督だからこそ、沖縄の米軍基地問題、東京のゲイカップル、千葉の父娘関係といった異なる社会的背景を、どれも嘘っぽくなく描けたのだと思います。

同じ「素性のわからない相手を信じるか否か」という問いに対して、信じた人、信じなかった人、信じきれなかった人。それぞれの選択と、その結末。どれか一つのエピソードだけでは「正解」が見えてしまう。3つ並べることで、正解なんてないということが浮かび上がってくる構成になっています。

まとめ

『怒り』は、観終わった後にモヤモヤが残る映画です。でも、そのモヤモヤこそがこの作品の価値だと思います。信じること、怒ること、人の感情の複雑さ。簡単に割り切れないものを、簡単に割り切らせない映画でした。

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