バルセロナの街はなぜこの形なのか──碁盤の目・低い建物・広い歩道に隠れた都市計画

11分で読める旅行
目次
  1. 碁盤の目は、ある夢の化石だった
  2. 丘の上の信仰──サグラダ・ファミリアとティビダボ
  3. モンジュイックの丘に積もった記憶
  4. 165年越しに、夢をやり直す街

バルセロナに住みはじめて、街を歩くたびに「気持ちのいい街だな」と感じます。理由をうまく言葉にできなかったのですが、よく観察してみるといくつか共通点がありました。

  • 街区がきれいな碁盤の目になっている
  • やたらと高い建物がない
  • 歩道がとても広い
  • 並木道の緑がきれい

最初は「なんとなく住みやすい」くらいの感覚でした。ただ、ここまで街の形が一貫していると、誰かが明確に意図して設計したように思えてきます。そこで、なぜバルセロナがこの形になったのかを調べてみました。これは観光名所の紹介ではなく、ここに暮らす自分が街の成り立ちを知ろうとした記録です。

碁盤の目は、ある夢の化石だった

バルセロナの新市街エイシャンプラにある、角が斜めに削られた正方形の街区。これは土木技師のイルダフォンス・セルダが1859年に設計したものです。自分が歩いて感じていた「碁盤の目・低い建物・広い歩道・豊かな緑」という心地よさは、すべてこの計画に由来していました。

きっかけは、セルダが1856年に行った調査でした。当時のバルセロナでは、裕福な階級の平均寿命が36歳だったのに対し、労働者の平均寿命はわずか23歳。過密と劣悪な衛生環境が、人々の命を奪っていたのです。セルダは「この街を変えたい」という強い思いから、採光・換気・公衆衛生、そして社会的な平等を都市の構造そのものに組み込もうとしました。

街区は一辺113.33メートルの正方形で、四隅は15メートルずつ斜めに面取りされています。この斜めの角は、当時の蒸気トラムが無理なく曲がれる半径から逆算して設計されました。建物を低く抑え、街路を広くとり、街区の内側は公共の緑地として残す。セルダはこの計画のために「urbanización(都市計画)」という言葉そのものを生み出し、ひとつの学問として体系化しました。広い歩道も、低い建物も、並木も、自分が気持ちいいと感じた要素はすべて、150年以上前の一人の技師が抱いた思想の結実だったわけです。

ただし、この夢が完全に実現することはありませんでした。利益を優先する開発が進んだ結果、ほとんどの街区で4辺すべてに建物が建ち並び、緑地になるはずだった中庭の多くは駐車場へと姿を変えてしまいました。

エイシャンプラを歩くたびに、自分はこの碁盤の目を「ある夢の化石」のように感じます。労働者の命を救おうとした理想が、資本によって骨抜きにされた痕跡まで含めて、いまも街の形にそのまま残っています。

丘の上の信仰──サグラダ・ファミリアとティビダボ

バルセロナを歩いていてもうひとつ気づくのは、街のどこからでも丘の上の建物が見えることです。そしてそれらは、たいてい信仰と深く結びついています。

サグラダ・ファミリアは、単なる観光名所ではありません。19世紀末に台頭していた左翼・アナキズム運動に対抗する「カトリックの砦」として、信者の献金だけで建てられる贖罪のための教会として始まりました。ガウディはキリストの塔を、街を見下ろすモンジュイックの丘より1メートルだけ低く設計したと伝えられています。「神が創った自然を、人間の創造物が超えてはならない」と考えたからです。

街の反対側にそびえるのがティビダボの丘です。標高512メートルの頂には聖心教会が建っていますが、興味深いのはその名前の由来です。ティビダボとは、聖書で悪魔がイエスを誘惑する場面に登場するラテン語「tibi omnia dabo(これらすべてをあなたに与えよう)」から来ています。

悪魔が世界のすべてを見せて誘惑した山に見立てた場所に、その誘惑を拒絶する聖心の教会を建てる。市街から見上げると、東に権力の城(モンジュイック)、西に信仰の塔(ティビダボ)が、街を見守るように稜線に立っています。

モンジュイックの丘に積もった記憶

その権力の城があるモンジュイックの丘は、バルセロナの歴史がもっとも濃密に積もっている場所だと思います。

この丘の名前は「ユダヤ人の山」を意味します。中世に市壁の内側への埋葬を禁じられたユダヤ人の墓地があったことに由来します。その後、丘の上には城塞が築かれ、1929年には万国博覧会の華やかな会場になり、スペイン内戦とフランコ独裁の時代には処刑場として使われました。ひとつの丘に、排除と栄光と暴力の記憶が地層のように折り重なっています。

象徴的なのが、リュイス・コンパニスの最期です。彼は内戦期のカタルーニャ自治政府の大統領でしたが、亡命先のフランスでナチスに捕らえられ、フランコ政権へと引き渡されました。そして1940年、このモンジュイック城で銃殺されます。最期の言葉は「Per Catalunya(カタルーニャのために)」だったと伝えられています。選挙で選ばれた大統領がファシズムによって処刑された、ヨーロッパで唯一の事例とされています。

そして1992年のバルセロナ・オリンピックのとき。彼が処刑されたまさにその丘の競技場は、「エスタディ・オリンピック・リュイス・コンパニス」と名づけられました。処刑された場所に、処刑された本人の名前を冠したのです。

通りの名前にも、同じように「記憶の上書き」が見られます。フランコ独裁の時代、カタルーニャ語は公共空間から追放され、通りの名前もスペイン語や独裁体制側の英雄の名前に塗り替えられました。現在のディアゴナル通りも、当時は「フランコ大元帥通り」と呼ばれていました。それが独裁体制の終焉とともに、1979年から82年にかけて約60本の通りが一斉に元のカタルーニャ語の名前へと戻されたのです。

通りの名札を架け替えるだけの行為に見えて、それは「自分たちの言葉は確かにここにあり、そして戻ってきた」という静かな宣言でもあります。バルセロナでは、地名そのものが最小単位の記念碑として機能しているのだと感じます。

こうした街の形や地名から過去を読み解く視点は、荒俣宏の小説『帝都物語』や、鈴木博之『東京の「地霊」』が東京に対して試みたアプローチとよく似ています。東京は土地の記憶を地下にそっと封印する街ですが、バルセロナはむしろ地上に露出させて見せる街だな、と歩きながら思いました。同じ「都市は誰かの思想や記憶の物質化である」という視点で見ても、東京とバルセロナは実に対照的な性格を持っています。

165年越しに、夢をやり直す街

面白いのは、バルセロナが「街の形に思想を込める」試みを、今もやめていないことです。

最近この街で進められている「スーパーブロック(スーパーイリャ)」という都市計画は、セルダが描いた碁盤の目の9街区をひとつの単位とし、その内側に車が通り抜けられないようにして歩行者に道を取り戻す取り組みです。これは、150年以上前にセルダが夢見ながらも資本の論理に呑み込まれてしまった「人間のための街区」を、現代の技術と価値観でやり直そうとする試みだと言われています。

自分が街を歩いて感じていた「歩道が広くて歩きやすい」「緑が豊かで気持ちがいい」という実感は、150年前のセルダの理想と、それを現代に甦らせようとするいまの試みの双方が、地面に刻み込まれているからこそなのだと思います。次にエイシャンプラの斜めの角を曲がるとき、自分はきっと、そこに刻まれた誰かの夢のことをまた考えてしまうはずです。


バルセロナでの暮らしそのものについては、こちらのシリーズに書いています。

ガウディ建築をめぐった記録はこちらです。

街の形から歴史や思想を読み解くという見方は、この2冊から学びました。

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